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東京高等裁判所 昭和54年(う)2224号 判決 1982年10月04日

本店所在地

横浜市西区南幸一丁目五番二七号

株式会社 鰻亭会館

右代表者代表取締役

足立曻

本籍及び住居

横浜市西区南軽井沢五番地の二

会社役員

足立曻

大正一一年一月二八日生

右両名に対する法人税法違反各被告事件について昭和五四年八月一〇日横浜地方裁判所が言い渡した判決に対し、両名の弁護人から各控訴の申立てがあったので、当裁判所は検察官宮本喜光出席のうえ審理をし、次のとおり判決する。

主文

本件各控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は被告人株式会社鰻亭会館及び被告人足立曻の連帯負担とする。

理由

本件各控訴の趣意は、弁護人横山国男、同岡田尚、同星山輝男連名の控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官河野博名義の答弁書にそれぞれ記載されているとおりであるから、これらを引用する。

所論は、要するに、原判決は、本件仮名義預金等(「本件仮名義預金等」の意義については原判決七丁裏参照。仮名義・無記名の普通預金・定期積金・貸付信託・金銭信託を含む。)は、被告人足立曻(以下単に被告人という。)及び足立照子(以下単に照子という。)において被告人株式会社鰻亭会館(以下被告会社という。)の売上の一部を除外して蓄積したものであり、したがって、本件仮名義預金等はすべて被告会社に帰属すると判断し、これを前提として被告会社の法人税逋脱の事実を認定したが、被告会社の営業実態及び各種経営指標等に照らすと、被告会社に原判決が認定したほど多額の本件仮名義預金等をなしうる売上があったとは到底考えられないところであって、原判決が被告会社に帰属すると認定した本件仮名義預金等中には、被告人又はその家族に帰属するものがある可能性を否定することができず、したがって、逋脱所得金額、ひいては法人税逋脱の事実については、これを認めるに足りないというべきであるのに、右可能性がないものとして逋脱所得金額及び法人税逋脱の事実を認定した原判決は事実を誤認したものである、というのである(なお、控訴趣意書中には、「理由不備」という文言を用いるなど、刑訴法三七八条四号所定の控訴理由を主張しているかのように見られる箇所もないではないが、それらは、原判決のした事実認定に関する説明が不十分である旨若しくは弁護人らがした事実認定上の主張を排斥する理由を詳しく判示していない旨、又は、原判決のした事実認定が不合理である旨主張するものであって、刑訴法三七八条四号の主張としては失当であることが明らかであり、いずれもその実質は、先に要約した事実誤認の主張に帰着するものと解される。)。

しかしながら、記録及び証拠並びに当審における事実取調べの結果によれば、本件仮名義預金等の帰属及びその金額に関する原判決の認定は、後記七の点を除くほか、概ね正当として是認することができ、所論のような事実の誤認があるとは認められない。以下、所論が提起した個々の論点に対する判断を通じて右結論に至った所以を敷衍して説明することとする。

一  所論は、控訴趣意書の二において、原判決は、本件仮名義預金等の存在と起訴前の段階における被告人及び照子の自供等から、本件仮名義預金等が被告会社の売上除外によるものと認定しているが、被告人及び照子の調査ないし捜査の段階における各自供は、同人らの公判段階における供述に徴すると、その信用性はきわめて疑わしく、原判決のした本件仮名義預金等が被告会社の売上除外によるものであるとの認定には根拠がない、と主張する。

そこで、検討すると、原判決が、本件仮名義預金等が被告会社の売上を除外したものである旨認定するのに、それを自認した被告人や照子の調査ないし捜査の段階における供述をその一資料としていることは所論のとおりであるが、原判決は、所論も認めているように、それと同時に、被告人やその家族の個人的収入の有無及びそのゆくえを追及把握したうえで、当時被告人らには本件仮名義預金等の源泉となるべき個人的収入がなかったことを重要な根拠として挙げているのであって、被告人や照子の調査ないし捜査の段階における供述のみを根拠に本件仮名義預金等が被告会社の売上除外によるものと認定したものではない。そして、被告人は、本件仮名義預金等の源泉について、原審公判段階の中途から、国税局及び検察官において把握しえなかったところの、被告人が過去に不動産業等により蓄積した銀行預金があった旨供述するに至っているけれども、被告人の右供述は、記録からうかがわれる国税局による徹底した銀行調査の状況、本件仮名義預金等に関する被告人の供述の再三にわたる変転ぶり等に徴し虚偽と認められること等をも合わせ考えると、本件仮名義預金等の源泉は、原判決において考慮済みの個人的収入が被告会社の預金中に混入している可能性(原判決一一丁裏6参照)及び当審における事実取調べの結果明らかとなった被告人らの実名義の個人預金から払い戻された若干の現金が混入している後記七の可能性を除けば、被告会社の売上除外以外には考えられないのである。このように、原判決は、本件仮名義預金等の源泉が被告会社の売上除外によるものと認定するのに、被告人や照子の捜査段階における供述のほか、右源泉に関する被告人の公判段階における供述が不合理で採用できないこと、被告人の個人的収入としては被告会社から受け取る役員報酬及び家賃があるのみであるところ、これらは生活費と実名義の個人預金にあてられていて、本件仮名義預金等の源泉となる余地がないこと、したがって、本件仮名義預金等の源泉は被告会社の売上除外以外には見出されないこと、そのように考えても格別不合理な点はないこと等の諸点を総合して判示の結論に至ったものと認められるのであって、所論が問題とする原判決の判断には十分な根拠があり、右所論の批難はあたらない。

二  所論は、控訴趣意書の三ないし五において、被告会社の本件各事業年度の法人税につきなされた更正処分が原判決のした所得金額等認定の基本になっているとし、これを前提にして、同更正処分上の数値をもとに被告会社の流動比率、所得率及び従業員一人あたりの売上高を試算したうえ、これらの経営指標が中小企業庁編の中小飲食業の平均的右同経営指標と比較して異常に高いとし、このことは、更正処分、ひいては原判決の認定した資産及び負債の額、本件仮名義預金等が被告会社の売上除外によるものであるとの原判決の認定が誤りであることを示すものである旨主張する。

しかしながら、原判決のした被告会社の所得金額の認定が、税務当局が被告会社に対して行った更正処分を基本としているとの事実は、原判決の判文上からはもとより証拠上からも認められないから、その意味では、所論はその前提を欠く主張である。ただ、原判決の認定した計理上の数値・金額や関係証拠によって被告会社の流動比率や所得率を試算してみても、これらが所論引用に係る統計数値に比しかなり高いことがうかがわれるので、その点につき若干の検討を加えることとする。

所論が根拠とする中小企業庁編の飲食業の経営指標は、多種多様で、莫大な数にのぼる全国の飲食業者のごく一部の調査結果を集計したものであるうえ、資本構成、立地条件、営業方針、業態等の個別的要因の多くを捨象したものであるから、果たしてこのような指標が原判決のした被告会社の所得金額認定の当否を判定するための基準としてどの程度の妥当性を持つかはきわめて疑わしく、被告会社の経営指標が統計上の平均的数値から乖離したものとなっているからといって、その一事から直ちに原判決の認定した被告会社の資産及び負債の額、売上高、ひいては実際所得金額について合理的疑いを抱かせるものであるとは考えられない。のみならず、従業員一人あたりの売上高についてみれば、被告会社のそれは、中小企業庁による平均的数値の一・四倍から一・六倍程度の範囲内にあるのであって、特に異常と評するにはあたらない。また、被告会社の流動比率や所得率が平均的数値から乖離したものとなっているのは事実であるが、関係証拠によれば、被告会社が、酒、米、鰻、もつ、調味料等の料理材料を短期間の掛で買うほかは、銀行借入れ等の負債を持たない無借金経営であること、多大の利益をあげながら、利益配当や再投資を行わず、そのほとんどすべてを銀行預金の形で蓄積していること、被告会社の貸付信託、定期預金等の額は莫大なものであり、被告会社の所得中利子収入の占める部分も無視できないこと、被告会社で使用している店舗は被告人個人の所有であり、被告会社はこれを被告人個人から賃借しているのであるが、その賃料は被告会社の売上や利益に比し低額に定められており、また、被告人や照子が被告会社から受取る役員報酬も低額に押えられ、これらの点も被告会社の利益を増大させる一要因となっていること等の事実が認められ、これら被告会社に特有の諸事情に照らして考えると、被告会社の経営指標が平均的数値に一致しないこともさほど異とするに足りないというべきである。

以上のとおり、右所論はいずれの観点からしても採用することができない。

三  所論は、控訴趣意書の六において、原判決は、本件仮名義預金等の源泉が被告人において昭和二〇年代後半から昭和三〇年代の半ば過ぎころにかけて蓄積した仮名義預金である旨の原審弁護人の主張を不合理な主張として排斥したけれども、被告人が右時期に不動産業等により財をなしたこと自体は明らかなのであるから、弁護人らにおいて右蓄積に係る仮名義預金の存在及びそれと本件仮名義預金等とのつながりを具体的に明らかにすることができないからといって、右蓄積に係る仮名義預金の存在まで否定してしまうのは誤りである旨主張する。

そこで、検討すると、関係証拠によれば、被告人が昭和二〇年代の後半から昭和三六年ころまでの間に飲食業を営むかたわら不動産の売買を手がけて利益をあげたことはうかがわれるものの、その間に蓄積した資産ないし仮名義預金等の存否及びその数額については、全く裏付けのない被告人の原審及び当審公判廷における供述があるのみであって、これを認めるに足りる確たる証拠は何もなく、本件仮名義預金等の源泉となった隠れた仮名義預金の存在をうかがわせるような蓄財の事実はこれを認めることができない。そして、右隠れた仮名義預金の存在を主張する被告人の原審及び当審公判廷における供述は、それが先にも述べたように、本件仮名義預金等の源泉に関する再三にわたる供述の変転や隠蔽工作の末に原審公判段階の中途になって初めていい出されたものであること、右供述が全く裏付け証拠を欠くものであること、本件貸付信託や定期預金等の源泉となった普通預金、定期積金及びこれらを経由しない貸付信託の入金回数は本件三事業年度中に七十数回、入金額も合計六千数百万円にも及ぶのであるから、もし真実被告人の供述するような仮名義預金が存在し、それを移しかえることによって右入金がなされたのであるとするならば、被告人において右移しかえのもとになった預金をしてあった銀行や口座番号を明らかにしたり、預金通帳や預金証書を提出したりすることが全くできないなどということは到底考えられないのに、被告人においては、これを全くすることができないこと、国税局による本件仮名義預金等の調査は徹底したもので、前記七十数回に及ぶ入積金の流れた先は全面的に解明されているのに、右入積金の源泉が別の仮名預金にありながら、源泉となった仮名義預金の存在を国税局ないし検察官において全く把握することができなかったというのは著しく不自然であること等に徴すると、虚偽と断ずるほかはなく、右被告人の供述に関する原判決の判断に誤りはない。ところで、所論は、昭和四〇年以前の銀行預金の状況が調査不能である事実を指摘し、これを援用しているけれども、原判決が被告会社の預金と認定した預金は、昭和三九年一〇月七日に城南信用金庫蒲田支店に平川眞一郎名義で設定された定期積金一件を除けば、残りはすべて銀行調査が可能な昭和四一年以降に入金設定されたものばかりなのであるから、もし真実これらの預金の源泉が所論のいうような仮名義預金であるとするならば、その仮名義預金も右移しかえが行われるまで昭和四一年以降も存続していたはずであるから、これについて調査しその結果を反証として提出することも可能なはずであって、所論が昭和四〇年以前の預金調査が不能であることを援用するのは、右反証を提出できないことの理由としては失当というほかない。

以上のとおり右所論も採用することができない。

四  所論は、控訴趣意書の七において、原判決は、本件普通預金、定期積金及び発生経路の不明な貸付信託の各入金を被告会社の売上除外によるものと認定したが、このように多数回にわたり多額の売上除外を行うことは被告会社の営業規模では不可能であり、また、本件各事業年度中における一回の入金額が一〇〇万円を超える回数が一八回にも及んだり、一か月の入金額が四〇〇万円を超えるものがあるというのも不自然であり、このような多額の入金額と仕入れとの関連性も判然としないのであって、原判決の認定はこのような点から見ても疑わしい旨主張する。

しかしながら、原判決が売上除外によるものと推認した本件各事業年度中における普通預金等及び簿外現金が公表売上高を含む全売上高中に占める割合は各期とも三割に満たないものであって、所論の強調するほど異常な金額・割合の売上除外を認定したものではない。そして、原判決が、普通預金等の入金額と入金間隔等について分析検討のうえ、これを売上除外によるものと見ても不都合はないとした判断は概ね正当として是認することができる。所論は、個々の入金毎に一日平均売上高を計算したうえ、それが一〇万円を超える日数を問題としているけれども、普通預金等の入金状況を見ると、個々の入金間隔と入金額にはかなり大きな振幅が見られるなど、個々の入金は必ずしも前回入金以降の売上除外のみによるものではないとの推定が働くのであり、また、売上除外を行うのに、売上の種類・金額を問わず常に一定割合でこれを行うとも思われないから、個々の入金額は、前回入金以降の被告会社の売上高ないし売上除外額を直接的に示すものではないと見るべきであるのに、所論は右両者に直接の対応関係があるとの前提に立って原判決を批難するものであるから、到底これに左袒することはできない。所論が問題とする一回の入金額が一〇〇万円を超える回数の点や一回四〇〇万円を超える入金がある点、仕入れ高との関連性の点にしても同様であって、所論は、前回入金以降の売上高及び売上除外額と今回入金額とが直接の対応・比例関係に立つとの機械的かつ不自然な前提に立って原判決の認定を批難するものであるから、やはりこれにも左袒することはできない。

五  所論は、控訴趣意書の八において、原判決は、信用性の薄い被告人の起訴前の自白及び照子の検察官に対する供述を有罪認定の決め手にしているが、これはこれらの供述の証拠価値の判断を誤ったものである旨主張する。

しかしながら、先にも説示したように、原判決はむしろ諸般の情況証拠を総合して有罪認定に至ったものであって、右被告人らの自供をも有罪認定の一資料とはしているものの、その説示からしても、また、被告人らが売上除外を認めた供述がごく概括的にそのような行動があったことを自認しているに過ぎない点等から見ても、原判決がこれを最重視し、有罪認定の決め手にしたとは到底解されないから、所論はその前提を欠き失当である。なお、所論は、原判決が、強制調査着手数日後にされた売上除外の割合に関する被告人の自白がその後銀行預金等を詳細に分析して得られた売上除外率に近いものであったことに着目し、これを被告人の自白の信用性肯定の根拠としたことを疑問視し、被告人の右自供もそれ以前になされた任意調査により判明した結果を押しつけられたものである疑いを払拭できない旨主張するけれども、右所論は憶測の域を出ないものであるうえ、原審証人前田昌男の証言等に徴し到底採用することができない。

六  所論は、控訴趣意書の九において、原判決は被告会社の実際所得金額を認定するのに、いわゆる財産増減法を採用したうえ、本件仮名義預金等の源泉が被告会社の売上除外にあることを根拠に、同預金等が被告会社に帰属するものと判断し、それを前提にして被告会社の所得金額を認定したが、本件仮名義預金等の帰属を決するためには、同預金等の額を公表売上高に加えた修正売上高が被告会社の仕入れ高、経費、従業員数等に照らして実現可能なものであることが明らかにされなければならないのに、原裁判所はこれを怠っている旨主張する。

そこで、検討すると、本件仮名義預金等の帰属が本件のほとんど唯一かつ最大の争点であることはいうまでもなく、したがって、同問題点については慎重な検討が望ましいとしても、本件仮名義預金等を被告会社の所得金額認定の基礎とするためには、同預金等が被告会社に帰属することが合理的疑いを容れない程度に証明されることが必要であり、かつ、それで十分なのであって、右証明があるのにそれに加えて所論のような方法・程度での検討を加えることは不必要であり、また、所論のような方法・程度による検討を経なければ右証明があったことにはならないというものでもない。そして、右問題点について証明があったとする原判決の判断が概ね是認できることは既述のとおりであるから、所論は理由がない。

七  なお、所論は、事実取調べの結果に基づく弁論において、控訴趣意での主張を具体的に補充し、被告人及びその家族の個人的財産に属する別紙一の(イ)の(1)から(6)までの被告人らの実名義預金からそれぞれ同記載の年月日金額の払戻しがあり、これらの払戻し金がその直後の別紙一の(ロ)の仮名義預金等の原資にされた可能性があるから、これら仮名義預金等が被告会社に帰属すると認定した原判決には事実の誤認がある、と主張する。

当審における事実取調べの結果によれば、別紙一の(イ)の(3)から(6)までの被告人及びその家族の実名義預金から同欄記載の年月日に同欄記載の金額の払戻しがされていることは、これを認めることができる。しかし、別紙一の(イ)の(1)及び(2)欄記載のような預金等の払戻しがあったとの事実は、当審における事実取調べの結果その他関係各証拠によっても、これを認めることができない。ところで、右(イ)の(3)から(6)までの実名義預金が元来被告会社に帰属していたと認めるべき証拠はなく、これら預金からの払戻し金がどのように流れ、どのように費消されたかについては、証拠上明らかにされていない。そうすると、被告人の個人企業の実態を持つ被告会社の経営に照らし、これら預金からの払戻し金が、所論のような、時期を接して設定され又は預け入れられた仮名義預金等の原資に充てられた可能性を否定できないばかりでなく、これに限らず、右払戻し金が、原判決が被告会社の資産に属すると認定したその余の本件仮名義預金等のなかにも混入している可能性を否定することができない。そして、このように被告会社の資産でないのに被告会社の資産であると認定された可能性のある金額を検討するに、それは、別紙二のとおり、被告人及びその家族の実名義預金から払い戻された前記(イ)の(3)から(6)までの金額及び被告人に最も有利に各払戻し日から各期末までの期間における半年複利式年利七分四厘七毛の利率によって計算したその利息(利率及び利息の計算につき原判決別紙一一の(2)の「仮受金に対する認定利息の計算」を参照)の合計額であると認められる。そこで、原判決が所得の認定方法として採用した財産増減法により原判示第二及び第三の各事業年度の期末における資産の、及び原判示第三の事業年度の期首における資産の金額として認定した各金額から、それぞれ対応の右金額を控除したうえで所得額及び法人税の金額を計算すべきことになる。唯、控除すべき対象の資産科目が具体的には不明であるので、同様の事例に対する原判決の用いた手法に従い(原判決一一丁裏6参照)、各修正貸借対照表の負債の部の仮受金をその分増額させる扱いをするのが相当である。また、原判示第二の事業年度の所得(当期利益金)額の減少は、これに伴い自動的に、次年度である原判示第三の事業年度の負債(未払損金)にあたる未納事業税の額及び前期繰越金額の各減少をもたらし、原判示第三の所得額を増加させる。この見地に基づいて計算すると、原判示添付の各修正貸借対照表のうち、再修正されるべき部分は別紙三のとおりである。このようにして算出された原判示第二及び第三の実際所得額、正規の法人税額及びほ脱税額は、別紙四の各「当審判断額」欄記載のとおりであり、これと合致しない限度で原判決の原判示第二及び第三の実際所得額、正規の法人税額及びほ脱税額の認定には、それぞれ金額を過大に認定した事実の誤認があるといわなければならない。しかし、この事実の誤認が判決に影響することが明らかであるか否かについて検討するならば、右事実の誤認は、ほ脱税額において原判示第二事実につき六〇万四、八〇〇円、同第三事実につき八万九、三〇〇円の誤認にとどまり、また、別紙四の各差額割合欄記載のように、原判示第二事実の実際所得額を約五・八九パーセント、正規の法人税額を約六・〇一パーセント、ほ脱税額を約六・四二パーセント過大に認定し、原判示第三の実際所得額を約〇・八一パーセント、正規の法人税額を約〇・八三パーセント、ほ脱税額を約〇・九一パーセント過大に認定しているに過ぎず、誤認額の実額・割合ともに少額であって、本件の犯情の認定に影響がないと考えられるうえ、本件が原審で被告会社に対する処断刑を定めるのに、罰金額をほ脱税額以下とすることができる旨の法人税法一五九条二項を適用していない事案であることにも照らして、いまだ判決に影響を及ぼすことが明らかであるとはいえない。

よって、被告人及び被告会社の本件各控訴はいずれも理由がないから、刑訴法三九六条によりこれを棄却し、当審における訴訟費用については、同法一八一条一項本文、一八二条を適用して、これを被告人及び被告会社に連帯して負担させることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 海老原震一 裁判官 杉山英巳 裁判官浜井一夫は転補につき署名押印できない。裁判長裁判官 海老原震一)

別紙一

<省略>

別紙二

<省略>

別紙三

原判決添付の修正貸借対照表の再修正部分

原判示別紙2 昭和45年1月31日現在

<省略>

原判示別紙3 昭和46年1月31日現在

<省略>

別紙四

<省略>

ほ脱税額の差額合計 六九万四、一〇〇円

○ 控訴趣意書

被告人 株式会社 鰻亭会館

足立曻

右の者らに対する法人税法違反被告事件の控訴趣意は左の通りである。

昭和五五年二月四日

右弁護人 横山国男

同 岡田尚

同 星山輝男

東京高等裁判所

第一刑事部 御中

一、控訴申立の理由……原判決に対する不服の要点

原判決に対する控訴申立の理由は、第一に、原判決が本件仮名義預金等を被告人会社に帰属するものと認定し、別紙10の金額を売上除外金と認定したことが、判決に影響を及ぼすこと明らかな事実誤認に該るというものであり(刑訴法三八二条)、第二に、右金額を売上除外と認定するについて、必要な理由を附していないということにある(刑訴法三七八条四号)。

以下、不服の理由について詳しく述べる。

二、原判決の基本的立場とその誤まり

原判決は、被告人足立曻が売上金からその二割乃至二割五分を除外したという供述を基礎として、

<1> 足立照子も右同様売上除外の事実を認める供述をしていること。

<2> 仮名義の預金が修正売上高の二割乃至三割の額となって右供述に合致すること。

<3> 被告人個人には本件期中に、右仮名義預金に相当する収入が認められないこと。

を理由に、本件仮名義預金が売上除外金であることを認定している。

本件では、仮名義の預金の存在は証拠上明らかなところであるが、この預金の存在自体と、右被告人足立曻の供述から、被告人会社に、申告売上高に加えて、右仮名義預金相当額を加えた売上高(修正売上高)があったと認定することは、論理に飛躍があり、理由不備と言わねばならない。

なぜなら、本件仮名義の預金が売上金から除外されたものであるというためには、事柄の筋道として、まず右修正売上高に相当する売上げがなければならない。売上げがないところに、売上除外はない。

検察官としては、本来なら本件期中の各年度において、右修正売上高があったことを立証しなければならない。少なくとも修正売上高を真の売上高と推認せしめるに十分な事実を立証しなければならない。従って、判決が、本件仮名義預金を売上除外金と認定するには、当然のことながら修正売上高を真の売上げと認めるに足る基礎事実を認定しなければならない。

ところで、本件では、仮名義預金の存在は証拠上明らかであり、被告人らもこれを争っていないのであるから、右預金が被告人会社の売上除外によるものであるかどうかが唯一の争点であるといってよい。

原判決の論理は、結局のところ、仮名義預金が売上除外か否かが問われているのに、仮名義預金があったから、それを加えたものが真の売上高であり、そこから売上除外したものが仮名義預金になっている。だから仮名義預金は売上除外によるものであると言っているのに等しい。

原判決は真の売上高→売上除外→仮名義預金という事物認識の筋道を無視し、「結果」として現われている仮名義預金の存在から逆に真の売上高を認定し、今度はその真の売上高を「原因」として「結果」の仮名義預金を売上除外によるものと認定するという「原因」と「結果」の論理則を無視した完全なタートロギーに陥っているのである。そして、これをタートロギーとみなされない為に「色づけ」したのが捜査段階における被告人足立曻及び同人の妻足立照子の供述である。仮に、本件で、右供述がないとすると、原判決のよってたつ基盤は何もない。

原判決は、右供述を基礎に、それに符合する事実のみを採用したと評価するのもおこがましいほど右供述しかないのである。

もちろん、捜査段階での自供も、重要な一つの証拠方法である。しかし、本件のような数値が問題となる事案で、このような漠然とした、しかも法廷で撤回した自白だけでもって、有罪を認定することは、真実究明の立場の放棄である。

裁判所に要求される立場とは、まず人間の供述というあいまいで、しかも供述者を取り巻く種々の状況のなかで、いかようにも変り得る供述というものに基礎を置くのではなく、客観的に動かし難い「事物」から出発し、そのうえで人間の供述がその「事物」と合致するかしないか、しないとすれば何故か、その理由は、という形での認識方法を採らねばならない。

原判決は、裁判所に要求される基本的な認識方法と全く逆の立場の認識方法を採っていると評されてもやむを得ない。

三、本件において、修正売上高を真の売上高と認定するについて、被告人会社の経営実態の検討は不可欠である。

売上は、経営活動により生まれるものであり、これの反映である。従って、修正売上高が真の売上高とみなされても不合理ではないという経営実態が前提として存在しなければならない。

一人で営業活動している者が、売値が一個一万円の品物を一日一個宛しか作れないことが客観的に明らかになっている経営実態で、当人が売上の二割を除外し、その金額が一日に二万円に該ると自供し、それに見合う二万円の簿外預金が存在し、かつ、当人が他に収入の途を有していないことが明らかになっているという事案で、一日の売上げを一〇万円と認定することができるであろうか。これができないこと誰の目にも明らかである。もし、これを認定するなら前提とした経営実態が虚偽であって、例えば、本当は一日一個ではなく、一〇個作れることが可能であるとか、売値が一個一万円ではなく一〇万円であったとかの事実認定が必要不可欠であろう。

経営実態も真実、自白も真実という前提では、一日の売上げ一〇万円はどこからも導き出せない。経営実態が真実なら自白が虚偽であり、自白が真実なら経営実態が虚偽である。双方真実のままの併存は許されない。

右のような場合に、双方真実のままの併存を許しているのが原判決の論理である。

そして、経営実態が客観的に認識可能でより真実を顕現するという本質から出発し、然る故に自白が虚偽であると認定せざるを得ない、というのが本件における弁護人の主張である。

弁護人の主張の当否は、とりあえずおいて、原判決のように、自白を真実のものとみなし、これに沿う仮名義預金の存在も認めたとしても、それだけで修正売上高を真の売上高と認定することはできない。これは右の例を見れば明らかである。

原判決の論理でも、修正売上高を真の売上高と認定するには「経営実態からしても不思議ではない、不合理ではない」という判断がどうしても必要である。

そして、そここそが原審において弁護人が本件における最大の論点だとし、立証を集中したところであった。

ところが、原判決は、この点について何の判断も示していない。原審弁論要旨「第二の二、被告人会社の経営実態からみて、検察官の主張する推定所得金額は根拠がない」項及び「同三、営業の継続性の観点からして推定所得金額は誤りである」項について、原判決が判断を示しているのは、「第二の二、の(三)の(3)の<1>預金の不規則性、<2>短期間で多額の預金」(判決一三丁表以降)と「同(三)の(4)の<3>月掛は売上除外ではなく家賃分である」(判決一六丁表以降)だけであり、右の点は直接経営実態に関する判断ではない。

結局、経営実態について、原判決は唯の一片も判断を示していないのである。

弁護人の主張が検討の結果誤りであり、これを排斥するというのならともかく、何らの判断も示していないのは、致命的な理由不備と言わねばならない。弁護要旨一一九頁以降に掲げた多くの判決が、この点に留意すべきことを指摘していることは極めて当然のことといわねばならない。この点だけでも原判決は破棄を免れない。

まして、本件の場合、被告人会社の経営規模・営業内容については、当公判廷において客観的に明らかとなっている。本件各年度中の、仕入れの内容も、従業員の構成も、販売商品、その価格など検察官が押収・調査した帳簿等から明らかであって、その記載内容の正しさについても、証人前田昌男大蔵事務官が、仕入先を調査して確認している(同人の公判廷の供述)。

これらの事実からすれば、被告人会社として、どれ位の売上げが見込まれるものかの推定は可能である。その推定方法としては、同種同規模の店舗の全国平均や、同地域での他店舗との比較などから容易に知り得るところであり、現に、この推定方法により申告額の誤りを指摘し更正決定をしているのが課税の実情であることは公知の事実である。仕入れの実態も判明しないし、帳簿もないという情況ならともかく、仕入れについては、その種類・数量・価格等明確な証拠があり、右前田昌男の調査によってもこれが間違いないものであることが確認されている本件の場合は、仕入れから売上げを推定する資料をもっている税務当局にとっては、容易に被告人会社の売上げを推定できるところである。

にも拘らず、検察官がこの点についての論証をしないということは、かえって被告人会社の売上げについては申告売上高が妥当なものであるということの証左とみられてもやむを得ない。

右申告売上高が、その根拠帳簿もあり、その計算も間違いないものであることは検察官も認めているところで、特に、右帳簿に不正があったとする証拠もない。

原審弁論要旨でも指摘しておいたが、仕入量等「入」が特定しているのに、修正売上高の「出」が、同種規模の統計的な経営指標からすれば異常極まりないというのが、客観的に明らかになっているのであるから、その「異常」について、納得せしめる理由が示されねばならない、とすること当然の論理である。

四、各種経営指標に対する判断の欠如

弁護人は、原審において、税務当局自身が作成ないし利用している各種経営指標からみて、修正売上高を真の売上高と認定することの不合理・不自然を主張立証した(原審弁論要旨第二の一、)。

この点について、原判決は、このことに直接の判断を示すことなく、「本件では関係証拠により財産増減法によって疑問の余地なく立証がなされているのであって、右のような反証(経営指標による修正売上高の不自然、不合理……弁護人)が本件所得金額を具体的に覆えすに足りるものとは考えられ」ないとした(判決一九丁表)。

しかし、財産増減法によったことによって、右のような反証に対する判断が不要となるものではない。弁護人は財産増減法によっても各事業年度の期首、期末の被告人会社の財産を認定するにあたって、各種経営指標からみて、被告人会社のものでない財産が混入している可能性を主張しているのである。

その意味では、「財産増減法によって疑問の余地なく立証がなされている」かどうかを、経営指標によって問題にしているのに、「疑問の余地なく立証されている」から「反証たり足ない」というのでは、問いにもって問いで答えていると評されてもやむを得ない。

以下、各種経営指標からみて、被告人足立曻関係の仮名義預金、無記名預金を被告人会社の売上除外から生じたものとみることは無理であること、即ち原審認定の所得金額は誤りであることを今一度重要なポイントだけを明らかにしておく。

尚、流動比率、所得率、従業員一人当りの年間売上高の三つの経営指標をとりあげるにあたり引用する弁護人冒頭陳述書(その一)添付の別紙1~4表の作成のしかた及びその根拠は原審弁論要旨の七~一〇頁のとおりである。

1. 流動比率について

企業会計では、資金の流動性を一年の単位で把え、一年のうちに換金される資産を流動資産、一年のうちに支払義務が発生する負債を流動負債という。流動比率というのは、この流動資産を流動負債で割ったものであり、企業の支払能力を見る重要な経営指標の一つである。流動比率については、アメリカでは二〇〇%以上が望ましいと言われているが、日本では一五〇%を超える企業は例外であると言われている。

次に、被告人会社の申告額、中小企業庁の統計資料、原審認定の基礎となった更正決定額のそれぞれによる流動比率を弁護人冒頭陳述書(その一)別表1から抽出して一覧表にしてみよう。

左表によれば、被告人会社の流動比率は、中小企業庁の統計(平均)は若干下回るけれど、日本の企業の実態からすればそう不自然ではない。しかるに、原審認定の基本となった更正決定額によると、昭和四四年で五三三・五%、四六年には何と八二二・七%という驚くべき数値になるのである。日本の企業に比して支配能力が格段優れているアメリカの企業でさえ、「二〇〇%以上が望ましい」といわれ、それ以下の企業が多いのに、五三三~八二二%などという被告人会社の流動比率は考えられない架空の数値という外はない(以上、中小企業庁編昭和四二~四五年版「中小企業の経営指標」の抜粋、証人蔭山勇の第二四回公判供述記録一〇~一三丁)。

<省略>

2. 所得率について

所得率というのは、純利益を純売上高で割った企業会計の数値であり、銀行などの金融機関はその企業の返済能力の基準として重視し、税務当局は課税標準の基になるものとして極めて重視されている経営指標の一つである。

次に、被告人会社の申告額、中小企業庁の統計資料、原審の認定の基本となった更正決定額のそれぞれによる所得率を弁護人冒頭陳述書(その一)の別表1から抽出して一覧表にしてみよう。

<省略>

右表によれば、被告人会社の申告額による所得率は、平均をやや下回る程度であるのに対し、更正決定額による被告会社の所得率は統計の平均の何と五倍以上という考えられない数値を示している。日本の企業の所得はきわめて優良な企業でも一〇%くらいだといわれていることからしても、右数値はあり得べからざるものというほかはないのである(以上、中小企業庁編昭和四二~四五年版「中小企業の経営指標」の抜粋、証人蔭山勇の第二四回公判供述速記録一三~二〇丁)。

3. 従業員一人当りの年間売上高について

従業員一人当りの年間売上高は、法人税法上のいわゆる推計課税を飲食業に対してする場合、最も重要な基準になる企業会計上の経営指標の一つである。なぜなら、従業員の数が売上の最大の鍵となるのが飲食業の特色だからである。

次に、被告人会社の申告額、中小企業庁の統計資料、原審の認定の基本となった更正決定額のそれぞれによる従業員一人当りの年間売上高について、弁護人冒頭陳述書(その一)の別表1から抽出して一覧表にしてみよう。

<省略>

右表によれば、被告人会社の申告額による従業員一人当りの年間売上高は、統計の平均をやや上回っているのに更正額によるそれは、平均を大きく上回っている。このような数値は、従業員の超人的な労働を前提にしなければとうてい不可能な異常な数値というほかはないのである(以上、中小企業庁編昭和四二~四五年版「中小企業の経営指標」抜粋、証人蔭山勇の第二四回公判供述速記録二一~二二丁)。

五、以上、流動比率、所得率、従業員一人当りの年間売上高という三つの重要な指標について検討してみるに、原審認定の基本となった更正決定額を前提にすると、それぞれの指標の数値が異常に高いものになることが議論の余地なく明白となった。

もはや事態は明らかである。更正決定額は、被告人足立曻関係の仮名義預金、無記名預金を理由なく売上除外により生じたものとして申告額に加えたことの無理が出てきたのである。そうした架空の更正額だからこそ、信じられないような架空な経営指標の数値が出てくることも別に怪しむに足りない。

六、仮名義預金の源泉が被告人足立曻の個人財産であることを否定した誤り

原判決は、弁護人主張に対する判断の二において、本件仮名義預金の源泉が、被告人足立曻の過去の営業活動、不動産取引によって得た利益に基づくもので、右による預金の移し替えによる可能性があるとする弁護人の主張が不合理で採用できないものであるとした。

しかし、被告人足立曻が昭和二五年以降昭和三六年にかけて、莫大な資産の形成をしたことは、弁護人提出の不動産登記簿謄本、被告人の公判廷における供述、証人立野・同柴田・同前田昌宏の各証言により明らかである。

被告人は、個人の不動産取引についての収入については、年度毎の確定申告をしており、原審において弁護人は所轄税務署に対し、右申告書の取寄せを求めたが、残念ながらこれが不能に終ったことは記録上明らかである。被告人及び弁護人横山が右税務署に赴き右資料の存在することを係員に確め、裁判所を通して要請があれば提出するとの約束があったのに、これが実現しなかった理由は不明であり、意識的隠匿ではないかと推測されてもやむを得ない。然しながら、前述の証拠により被告人が昭和三六年当時、即ち被告人会社を設立する時点において、約一億四、〇〇〇万円の資産をつくっており、これらが殆んど仮名義の預金とされていたと推認することは格別不合理ではない。これは原判決が、被告人個人の資産と認定した城南信用蒲田支店の定期預金七、〇七九万円強の約二倍である。

原判決は、昭和四〇年以前の銀行預金の調査不能を云々するが、その正確な数字はともかくとしても、証人立野の証言、被告人の供述から明らかなように被告人が営業活動や不動産取引で儲けた前記の金員は独り城南信用金庫のみではなく、他の銀行にも預金されたことが認められる。被告人の個人資産を原判決認定のように別紙9の金額のみに限定する根拠は全くない。

右金額は、偶々預金の継続が本件起訴年度前まで遡れただけにすぎないので、その余の預金が偶々その継続性を発見できないからといって全てを当期の売上除外とみる科学的根拠はない。

従って、原判決が弁護人の主張に対する判断一の3で、「被告人の実名義分及び家族名義分並びに昭和四〇年以前に遡れる別紙9掲記の定期預金」を個人資産と認め、この定期預金の本件期中の各年度末増加額が受取利息と一致することを挙げて、この定期預金から本件仮名義預金の普通預金・定期預金への移入が考えられないとして、売上除外金からの移入を認める理由の一としていることは決して妥当性をもつものではない。

前述のように、被告人個人の仮名義の預金を右別紙9の城南信用金庫の定期預金に限定すること自体が証拠上妥当性を欠くのである。

昭和四〇年以前に存在した被告人の仮名義預金が調査不能ということは、昭和四〇年以前には、別紙9の定期預金外にも仮名義の定期預金が存在したことを否定するものではない。そして、それらの預金が他の銀行へ移されなかったと、どういう理由で断定できるのであろうか。その可能性をどうして否定できるのであろうか。

被告人足立曻の多額の資産、それらが多くの仮名義の預金となっており、これらの預金は一年後は他の仮名義に変更されるなど移動性のはげしいものであったこと、それらは利息のみでも相当の額にのぼったこと、これらの利息が別の仮名義の預金に移動することなどの情況を考えれば、被告人足立曻の個人財産を源泉とする別紙9以外の仮名義の預金の存在は十分に考え得ることであって、これは単に可能性にとどまらない。

このような場合、検察官としては、被告人の個人資産が別紙9の範囲に限定されることについて、即ち他に預金の存在しないことにつき合理的疑いの存しない程度に立証する責任がある。

原判決はこの点、かえって弁護人側に調査不能の責任と、他の預金の存在につき立証を求める点で根本的誤りをおかしている。

七、原判決認定の金融機関に入金された売上除外額からみた不自然、不合理

1. 原判決中の明白な誤り

原判決中には、明白な誤記と思われる部分と起訴事業年度外の貸付信託入金額を売上除外と認定するという訴因外の事実認定を行うという誤りを犯している。

第一は、原判決一一丁裏終りから二行目「別紙6の(2)、3のうち」は「別紙6の(2)、二のうち」又は「別紙6の(2)(3)の二のうち」の誤記と思われる。かく解さねば意味が通じない。

第二は、普通預金を経由せず、売上除外金を直接貸付信託に入金した分について、原判決は一二丁裏三行目から八行目にかけて、「貸付信託の一部(前記<1><8>ないし<11><13><20><29><31>別紙6の(2)(3)、13参照)の金額は(中略)、いずれも被告人会社の売上の一部除外金によるものと推認することができる」としている。

しかし右金額のうち、<1><8>ないし<11><13>は、本件起訴事業年度の始期である昭和四三年二月一日以前にその継続が判明していること判決別紙6の(2)(3)によって明らかであり、右貸付信託の金額を売上除外金と推認することは、訴因外の事実を認定したことになり違法不当であるとともに、原判決の主文と理由中の判断との間にくい違いが生じる結果になり、破棄を免れ得ない。

2. 原判決認定を前提とした売上除外の異常性

普通預金等への預け入れを売上除外とみることの困難性について、弁護人は原審弁論要旨第二、の二の(三)の(3)(四九頁以下)において、詳細に論じておいた。これに対し、原判決は、そのうち<1>預金の不規則性<2>短期間で多額の預金について反論を加えている(判決一三丁表七行目以降)。

(一) 短期間で多額の預金について

原判決は「この点に関する弁護人の主張には、入金日、入金額(売上分)についての誤解に基づくと思われる主張が散見され」入金状況からみれば「一日当りの売上除外の平均は、その大半が五万円内外となり、弁護人の指摘するように一日一〇万円を超えるのというのは例外であり」、その例外についても「入金日を更に一、二回遡って入金状況を検討するとさほど不自然な入金と言えないのみならず、宴会等の一時的な高額の売上、季節的な売上額の変動等も考えられないわけではない」とし、更に「弁護人の主張は入金日に手元にある現金を留保せず常に一度に入金するという前提にたつものと思われるが(中略)、右のような前提自体それほど根拠のあることではない」と判断している。以下これに対し、逐一反論する。

(1) 反論の前提

原判決は、入金日・入金額について、弁護人の主張には誤解に基づくものがあるとしている。たしかに、入金日についての誤記(例えば、弁論要旨五六頁七行目の同月一三日が一一日のミスプリであることは、九行目の右五日間でという記載からも明白である)や入金額をそのまま売上分としたものがあった(例えば、同頁三行目入金五〇万円はそのうち四〇三、六六九円が売上除外分である)。

そこで以下、前述した判決の判断が如何に根拠のないものかを述べるにあたっては、原判決が認定したものだけを基礎に、これに対する反論を行うこととする。

本書面添付別紙(1)ないし(3)「金融機関に入金された売上除外額一覧表」は、原判決添付別紙8の(1)(2)「普通預金入金状況」を基礎に、これに別紙7の「定期積金掛金入金状況」及び売上除外とされた貸付信託入金分別紙6の(3)の<20><29><31>の金額の一部(入金日と売上除外額は、別紙13の(3)のJ、同(4)のQで判明している)を加えたもので、原判決が認定した売上除外額のうち、簿外現金増加分合計六一二万円を除いた全てである(判決別紙10)。

(2) 一日平均一〇万円を超える売上除外の回数は四回に一回で、合計二六回に及ぶ異常性

原判決は、前述したように、「一日一〇万円を超えるのは例外」としたが、別紙(1)ないし(3)によると次のようになる。

<省略>

つまり四回に一回は、一日平均一〇万円以上の売上除外という計算になる。確かに大半ではないが、検討を不要とするほどの「例外」的現象ではない。被告人足立曻の自白によれば、これが売上げの二割ないし二割五分というのであるから、一日の売上げは、四〇万円ないし五〇万円となり、被告人会社の営業規模では到底無理である。

特に、昭和四四年度は二・四回に一回という頻度であり、これを一年三〇九日の営業日数として(一週間一日及び正月休みを四日間として計算すると休業日は五六日)そのうちの何日に当るか計算してみると実に八八日(別紙(2)の「一日当り売上除外額が一〇万円を超えるもの」欄の日数の合計)を数え、三・五日に一日の割合ということになる。三・五日に一回の割合で宴会等があったというのは、あまりに不自然である。また、除外額が「一日に少ないときで七千円から八千円、多いときで三万円位」という足立照子の供述にも合わない。

更に、原判決は、「一日当り一〇万円を超える入金日を更に一、二回遡って入金状況を検討するとさほど不自然な入金とは言えない」と判断したが、これが具体的に何を指すのか不明である。

もし、これが一、二回遡ったところ、入金売上除外額が低額で、現金留保の可能性があり(この可能性の前提の誤りについては後述する)、これを加えて後日入金したので、一日当り一〇万円を超える結果になったことが考えられるという趣旨なら、全く根拠のないことである。

別紙(1)ないし(3)をみれば明らかなように、一日当り一〇万円を超える入金日の一、二回遡った入金額が、それ以外の入金額と比較し、格別低額であるという特徴はない。例えば、別紙(1)の<1>昭和四三年七月一二日分についても、その一回前は同月五日の六〇万円の入金である。同<3>同年一二月一七日分にいたっては、その一日前の一六日に六五万円入金し、更にその五日前の一一日に五〇万円入金しているのである。他も全て同じ様なもので、原判決は本当に具体的検討したのか疑わざるを得ない。

(3) 一回の売上除外による入金額が一〇〇万円を超える回数が一八回に及ぶという不自然

一回の売上除外による入金額が一〇〇万円を超える回数は昭和四三年九月一九日安田信託銀行横浜支店の中島静名義の一〇二万円の普通預金から昭和四五年七月一〇日の同銀行同支店の山口鈴子名義の一八〇万円の普通預金まで合計一八回に及ぶ。

これは、毎日一定割合の売上除外を為しているという前提なら不自然である。原判決は、右のような弁護人の主張に対し、「現金を留保せず常に一度に入金するという前提にたつもので、その前提が根拠ない」という。しかし、原判決が認定している如く「一日の売上げから二割ないし二割五分除外し」、かつ「二、三の銀行を平行して利用し」ている状況では、現金がむしろ一〇〇万円に達するまで留保するという前提の方が不合理である。もちろん、現金を留保する可能性も留保しない可能性も、いずれもあり得るし否定はできないが、留保する必要性もなく、(却って一度に多額の入金の方が疑われる可能性は強い)、銀行を四六時中利用している被告人足立曻に関する限り、むしろ現金を留保するという前提こそより「根拠のあることではない」。

(4) 一ケ月の売上除外額が四〇〇万円を超える不自然

別紙(1)ないし(3)により各月毎の売上除外額を算定してみると、昭和四四年一二月が合計四〇九万円、同四五年七月が四〇三万円にのぼる。

右金額が売上げの二割ないし二割五分だとすると、売上は一ケ月一、六〇〇万円から二、〇〇〇万円である。これも被告人会社の営業規模では不可能に近い数値である。

(5) 売上除外額の多寡と仕入量の関係

月毎の売上除外額は、最高は前述した昭和四四年一二月の四〇九万円で、最低は同年七月の七六万五千円である。

ところが仕入量は右格差を説明し得るほど変っていない。売上除外額の多寡は当然売上額の多寡に正比例し、売上額の多寡は売値が変らない限り仕入量の多寡に正比例するはずである。ところが、被告人会社において、右関係を立証するものはない。

むしろ、押収された仕入帳簿等からは「右のような関係にない」ことが明らかとなっている。

なお、この点については、後日更に詳細に具体的にして補充したい。

(二) 預金の不規則性について

この点に関する原判決の判断は、「入金状況の大半は、月二乃至四回に分けて、合計約二〇万ないし一〇〇万円の入金がなされており、これは銀行員として普通預金を受入れていた原正定の供述とも符合する」というだけで、原審弁論要旨五〇頁以下の指摘に対して格別の検討もなされていない。ここでも供述万能主義である。

しかし、ある程度定期的に売上除外をする場合、例えば「何日おき」だとか「いくらになるまで」とかの目安があるはずである。別紙(1)ないし(3)からは、このような特徴も見出せない。右入金状況からは、原審弁論要旨五二頁で指摘したように、「金額にしても預金時期にしても全く思いついた風で、何らの法則性、規則性はない。継続的な営業のなかでは、到底あり得ないことである」。

以上、みたように、原判決が認定した入金売上除外額の実態を仔細に検討すると、原判決が弁護人の主張に対する判断で示した所論は、何一つ根拠のないものであることが判明する。

却って、入金された売上除外額の推移からみて、むしろ入金額を売上除外分とみる方が不自然・不合理であるという弁護人の主張こそが正しいことが明らかとなった。

八、被告人足立曻の自白の証拠価値

原判決が、被告人足立曻の自白及び同人の妻足立照子の供述を有罪の認定の決め手にしていることは前述した。証拠方法のそれぞれは、「この証拠によってここまでは認定できる、あるいは推認できる」という意味での一種の限界を有する。かかる意味での証拠の証拠価値としての限界、役割を正しく認識することは、自己の予断や先入感を前提に、これに沿うように当該証拠の客観的機能を超えた役割を与えてまで、事実認定をする誤りを避ける意味で、真実究明の観点からは極めて重要なことである。

ところで、原判決は、右のような意味で、被告人足立曻の自白と足立照子の供述に対し、その証拠としての客観的機能が限界を超えた役割を果させている点で、証拠価値の判断を誤っているものと言わざるを得ない。

第一に、人の供述があいまいで、うつろいやすいものであることは前述した。供述者が、供述当時の彼をとりまく様々な条件のなかで、どのような供述を選ぶかについて、もっと厳密に検討する必要がある。「人は、やってもいないことで、自己に不利なことは言わない」というのは一つの説得力ある命題である。しかし、一方、「人は、今、自己のおかれた立場でもって自己に利益なことを言いたがる」というのもまた一つの真実である。そして、それはときに客観的真実には背く。しかし、そのときの供述者には、真実よりいま一方の異なる要素の事柄がより大事であり、自己に利益だと判断したわけである。拷問から逃れる為の安息が今の自分には最大の要求のときには、人は、虚偽の自白もする場合がある。

本件被告人の場合、もちろん拷問があったというわけではないが、「刑事々件となって、法廷に立たされて、何年もかかるより、今、罰金を支払い、早く本件に片をつけ、その分商売で儲けた方が得だ」と考えたとしても、それは一面無理からぬことであり、あり得ることである。それが真実に背くという結果をもたらすとしても、そのときの被告人には、真実発見の利益より、それ以外の前述したような利益が重かった、ということである。人間の具体的場面におけるこのような選択の可能性のあることを誰も否定することはできないだろう。単純に「やってもいないことをやったという馬鹿はいない」という図式では割り切れないものがあるということである。

第二に、本件では、これも前述したように、全ての帳簿類が押収され、検察官の手許にあり、しかもその帳簿の正確性についても争いがない。特に仕入れについては、反面調査をやった結果間違いないという。かかる客観的データーから、修正売上高を売上げることがいかに異常で困難であるかも、各種経営指標との比較から指摘したとおりである。このような条件のなかにおける被告人足立曻の自白であり、その妻の供述である。必然的に真実発見の場面における右供述の占める位置は、帳簿等客観的「物」がないときより軽くなる。少なくとも軽いものと考えねばならない。

第三に、本件被告人足立曻及び足立照子の供述の中身である。単に、「売上げの二割ないし二割五分を除外した」「一日に抜いた額は少ないときでも七千円から八千円、多いときで三万円位」と除外額を供述しているにすぎない。残された正確な物的証拠(帳簿)との関連でどこにごまかしがあるのか、あるいは、仕入先で帳簿に出ていないものが他にあるとか、犯行の具体的態様についての部分は、ほとんど供述していないのである。残された物的証拠と供述が矛盾するのであるから、当然この点が供述のなかで明らかにされていなければならない。これがされていないのでは証拠価値としては、極めて薄いと言わざるを得ない。

なお原判決は、被告人足立曻の自白を信用するに足る理由として、「右の被告人の供述は、昭和四六年四月二六、二七日に本件仮名義の預金等を含む預金証書類の差押を受けて間もない同月三〇日の段階でなされた概括的な供述であるが、その後(傍点弁護人)、本件各種銀行預金を詳細に分析して求められた結果の売上除外率にほぼ匹敵する」ことを挙げる。しかし、原判決は、「本件各種銀行預金を詳細に分析した」のが、被告人の自白の「その後」ということをどこから、どの証拠から判断したのであろうか。被告人の自白時に全て細部まで判明していなくとも、大枠は調査済で、だからこそ被告人の自白も「二割ないし二割五分」という大雑把な自白に留まっていたのではないか。むしろ、そういう筋書で考えねばならないだけの要素を含んだ供述ではなかろうか。

以上、本件被告人足立曻らの供述は、原判決がその存立の基盤とするほどの証拠価値は有していない。

九、法人税ほ脱事件における証明のあり方

本件のような、法人税ほ脱事件の証明のあり方に関する弁護人の主張(原審弁論要旨第六)に対し、原判決は、弁護人の主張に対する判断の四において、これに対する判断を示している。しかし、この誤りは以下述べるとおりである。

法人税法上の推計課税は、実額即ち真実の所得金額を把握するに十分な資料がない場合に、所得を推測させる間接的な事実から、蓋然的考察によって所得の実額に近似する数額を把握することで満足しようとするもので、財産法がその一であることは異論のないところである。

弁護人の主張も、刑事々件において全ての場合に右推計による方法が許されないというのではない。しかしながら、行政処分としての更正処分における場合と、法人税法違反という刑事々件における場合とが、その所得金額の算出につき、全く無関係であってよいとする理由はない。

刑訴法が証拠法定主義をとっていないことはいうまでもないが、法人税法違反事件においても、その実体は「実際の所得額」より「過少にこれを申告した」ことによって、その差額に応じた税金をほ脱したということであるから、「実所得額がどれだけであったのか」が、検察官において主張立証されねばならない。そのためには、法人税法がその実額算定方法として定めている法人税法第二三条の損益計算法を最良とすることこれも論をまたないところである。

勿論、これに限らねばならない趣旨でないことはさきに述べたとおりであって、検察官が財産法で以って所得金額を算出することも許容される場合があることは否定できない。

しかし、だからといってこれは更正処分の場合と、刑事々件の場合とで、その所得金額の認定の点において異ってよいとすることを意味するものではない。少なくとも有罪の判決をするについては、申告所得が実所得よりどれだけ過少であったかを認定する必要があり、右認定所得金額については、疑をいれない程度の厳格な証明を必要とする。従って、右が推計によるとしても、その合理性の担保が適法要件とされるのである(更正処分についての学説・判例)。

本件では、帳簿は完備されていて裏帳簿もなく、またその内容についても、仕入関係、経費については全く問題がないことが、これまでの国税局の調査からも明らかとなっており(証人前田昌男の供述)、右帳簿上仮りに売上げ額の記載に問題があるとすれば、仕入関係が経費の面から逆算してその適否と判断することが十分に可能であり、本件の場合も、当然これらの方法で調査されているとみられるのに、証人前田昌男はこれをしなかったという。

わが国においても、推計方法としては、右財産法のほかに、消費高法・単位当り額法・比率法などがあり、比率法が多く用いられ、その比率法のなかには、<1>本人の比率 <2>同業者率 <3>実調率 <4>所得指標率、があり、実際に税務署においても右方法がとられている。

弁護人は、右のような推計方法を用いても、検察官主張の金額に相応する売上げは不可能であると主張しているものである。

然らばなぜ財産法によれば、検察官主張の金額がでてくるのか。それは、仮名義・無記名の預金(公簿事実記載の金額)を直ちに売上除外金として被告人会社財産とするところに問題があるのである。

しかし、右が売上除外金であると認定するには、被告人会社の経営の実態、被告人個人の資産の形成につき十分検討の上判断さるべきことである。

原判決は、「他に特段の事情が認められない本件では」、「それが損益法立証による算定と一致するか、少なくともそれ以上でないものと認められることから考えても」当然許容される算定方法といえるという。

既にくり返し述べたように、本件は、仮名義の預金が被告人会社の売上除外金によるものか、個人の預金なのかが争われているのであって、被告人会社の売上金勘定項目自体の額の問題であるから、両者が「一致する」とか「それ以上でない」と見ることのできない場合である。原判決は、真の売上高を修正売上額と認定した結論を前提として、「一致する」とか「それ以上でない」との比較をいっているのであって、これでは本件での問題解決に何ら寄与しない。

また本件が「他に特段の事情が認められない」といえる事案でないことも明白である。

即ち、損益計算法により算出された申告所得金額については、計算上も、その資料も問題になる点がないことは検察官も認めているのであって、ただ本件仮名義の預金の存在が明らかになり、これが被告人会社の売上金を除外したものによるものだとの疑をもたれ、さきにのべたような理由からその事実を認定し、これを売上高に計上すべしというのである。

原判決によれば、申告売上高は被告人会社の実際の売上高の七割二分ないし七割六分にしかならないというのであるが、決算報告書における売上高以外の仕入れ或は経費の勘定項目の金額については問題がないことは証拠上明らかであるから、被告人会社の経営活動上からみても、右修正売上高が実現し得る根拠につき合理的な説明が必要とされる。

このような事情を無視して「特段の事情のない本件」と断定し、損益法であろうと財産法であろうと問題ないとするのは、自己の結論に導く為の牽強附会の類の主張である。

十、おわりに

原判決は、現実の生活事実から遊離したところで予断と先入観(これだけの解明不能の金があったのだからやったのだろうという)に基づき、頭の中だけで結論を導き出した結果の典型である。

本件は一度、現実の生活事実(客観的に現われた営業規模、営業形態)に立ち戻って認識する方法をとったときには、無罪の結論しかない。原判決が経営実態に対する判断を示さなかった、いや示し得なかったのは、これの検討にのり出したとき、どうしても有罪の結論が導き出せなかったからである。原判決は逃げたのである。

控訴審裁判におかれては、社会的事物の認識方法からかけ離れた「自由心証主義」による判断ではなく、事柄の筋道に従った認識方法による公正な審理をしていただきたく、最後に強く要望する。

別紙(1) 金融機関に入金された売上除外額一覧表

(昭和43年度)

<省略>

注:無印は普通預金

は定期積金

は貸付信託

別紙(2) 金融機関に入金された売上除外額一覧表

(昭和44年度)

<省略>

別紙(3) 金融機関に入金された売上除外額一覧表

(昭和45年度)

<省略>

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